あでぃすでぃす

一つ文章を書くたびに寿命と社会的評価が削れていくおブログです。

ノンタイトル

人は死ぬし、絶対死ぬし、死ぬからにはそのラスト、色々な辿り着き方がある。年齢然り、原因然り、そのスピード感然り。2年半で2度『喪主の次のポジション』をやった。父と弟。父は癌になって時間を掛けながら想像通りジワジワと悪くなって緩和ケア病棟に入って意識が無くなってから1週間持ち堪えて死んだ。本人も周りも誰もが理解し、覚悟し、整理しながら死んだ。弟は調子が悪いと言い出してから10時間で死んだ。嘔吐と下痢と腰痛で、近所の内科に行こうとタクシーを呼んでいた時、既に体内では大動脈が爆発して生命維持機能が失われていた。おそらく本人すら死という感触を得ないままに死んだ。数十万人に一人の「そういうとってもレアな病気」だった。これは死んだ事実から逆算して初めて分かったことだった。人間の本質は逃げたがりなので、死の恐怖と常に向き合い続けることは出来ない。コロナで何人死んだと毎日聞かされようと、大震災が起ころうと、身近な人間が死のうと、それで感化されるのは一瞬のことで、すぐに「自分だって今この瞬間死ぬかもしれない」という気持ちは薄れていく。人間は自らの心が死なないようにどんなに大切でも他人の死を一生は引き摺らないようインプットされているのかもしれない。とにかく、人は死ぬ。ある日突然大動脈が爆発する可能性まで考えながら生きるのはしんどいが、居眠り運転のトラックに突っ込まれても死ぬし、間違えて全世界の核ミサイルが発射されて地球が灰になっても死ぬし、あの時あんな仕打ちをしたアイツが包丁を持って突っ込んできても死ぬし、自分で自分に覚悟をしても死ぬ。生きたくても生きられなかった命があるのに自殺なんてするな、なんて言うつもりはない。自殺といってもそこに至るまでの99%は外的要因で、最後の最後のひと押しを自らでやったに過ぎないのだから。義理の叔父は十数年前に自殺して亡くなった。健康でも経済でもなく社内の軋轢だったと聞いている。もしも死に方を選べるならどうするだろうか。病に侵されて弱っていく自分を見つめながら死にゆくのがいいのか、100が一瞬にして0になるように、雷に打たれるように死に気付かぬままこの世から消えるのがいいのか、ここだと閃いたタイミングで自らのスイッチを落とすように死ぬのがいいのか。一通り考えてみたが、全て嫌だった。死にたくないのだから。人間というものは、ではなく個人的な根源的な気持ちとして、死にたくないです。でも、死ぬ。いつか、どこかで、なにかがおこって、死ぬ。死んでからでは遅いので、生きているうちに死んで後悔しないだけのことはやっておいた方がいい。「ここまでやったらもう今死んでOK」なんて時は来るだろうか。おそらく、死ぬまで来ない。だとすると、人間が生きているうちに出来ることとは一体何なのだろうか。もういい。今こんなことを書いていたって、結局は死と向き合うことに耐え切れず、緩やかに目を反らしていくことになるのだろう。そして、本当に自分の死が訪れた時、そうだ、俺も死ぬんだったと間抜け面をして思い出すのだろうか。死にたくないし、これまで死んでいった人々も死にたくはなかったと思う。3年前、父が死んだ。6日前、弟が死んだ。緩い坂道を歩いて下りるように父は死に、地割れに飲み込まれるように弟は死んだ。死に方が選べないなら、せめて死ぬまでの生き方は選びたい。