御坊に行き着いたのは、偶然ではない。
私は、海を求めていた。全てを隠し、全てを受け入れる海を。西御坊で電車を降りた私は、ひたすらに南西へ、海の見える丘へ、リズムを緩めることなく歩き続けた。すれ違う者はだれ一人としていない。好都合だ。
私はここで過去を断ち切らなければならない。厚い雲に覆われた空に呼応するように暗く澱んだ海に、私の大切な、それでいて忌々しいあの重荷を、溶かして、沈めて、消し去ってしまわねばならない。
ようやく辿り着いた海は、無造作に消波ブロックが積まれ、打ち上げられた流木やゴミが幾山もあちらこちらに積み上げられ、波は暗く、砂浜は攻撃的な海。絶対に人間を笑顔では踏み入らせない、そんな意志を感じる海だった。視界の端まで続く堤防だけが立派で、人が通るべき道は茨が覆い、「浜ノ瀬緑地公園」と名付けられた無人の草原にはずっと強い潮風が吹いていた。
これこそが、私の望んでいた海の姿だった。遠く漁港からちらちらと響いてくる漁師の声に体をこわばらせながら、暗く濁った海へ、粗くて砂浜とも呼べないような道を踏みしめ、遂には海の臭いが鼻をつくところまで、意識する間もなく私の体は引き寄せられていた。
深呼吸をする。周りを見渡す。私は詩人ではない。今は無機的に、事務的に、厳かに従事しなければならない。肩に掛けていた小さな鞄を降ろす。もう一度周りを見渡す。東から漁師の声が聞こえる。空を見上げる。私の心持ちのせいなのか、ますます空を覆う雲は厚く、深い色になり、私を世界から隠し通そうとしているようだった。にわかに高くなった波が目の前でしぶきを上げ、頬に冷たくささる。海からの忠告に少し驚き、視線を水平線の果てに戻した私は、もう一度深呼吸をしてから心臓の内側へと手を差し入れた。
終えてしまえば簡単なことだった。鞄を拾い上げ、遠い地平線をまた一瞥する。海に背を向けてゆっくりと歩き出し、風で乱れた髪をかき上げ、まぶたを擦り、その手の匂いをかいで、なぜか少し笑った。
堤防を左手にして、もう海を見ないで済むようにして歩いていると、大きな犬を連れた老婦人とすれ違った。そのすぐ後には、立て続けに軽自動車が私の背に風を当てて通り過ぎていった。ほんの少し前までの無機質な世界が嘘のように、世界に営みが戻ってきた。いや、世界はもともとそこにあり、私が本当の世界に戻ってきただけなのかもしれない。
無骨な防風林が途切れ、屋根の低い家々が見えてきた辺りで、私は右に道を折れた。潮の匂いが遠ざかる。もうこの海を、御坊の暗い海を見ることはないだろう。日は次第に落ち、辺りは徐々に暗さを増していったが、海から離れれば離れるほど、私の心が色彩を取り戻していくような気がしていた。
橋を渡り、街に戻る。世界に私と海と空しかなかったあの時の景色は脳裏から消え、幾万の人々のうちの一人に戻る。
駅の光が近付き、ふと鞄に目をやると砂粒が付いていた。
何を思ったのか私はそれを口に含み、それから、静かに呟いた。
【________】